第2回 学長対談

前尼崎市長(本学客員教授就任)白井 文氏

大学入学と同時に客室乗務員として勤務、その後人材育成コンサルタントを経て政界に飛び込み、市議会議員、当時としては全国最年少の女性市長と常に新しいことに挑戦しつづける白井 文氏。
本学グランドデザイン「美Beautiful2030」をもとに、ご自身の女子校での経験も踏まえ、女子教育の未来を北尾学長と意見交換していただきました。

【北尾学長】 本日はお忙しいところありがとうございました。
大阪樟蔭女子大学は、昨年母体である樟蔭学園が創立100周年を迎えまして、これを機に建学の精神を見つめ直し、変化の激しい時代に対応すべく大学の進むべき道、将来像としてグランドデザインを提示しました。その中で、当然大学というのは人材を養成すべきところですので、養成すべき人材像として「自ら考え主体的に判断し行動する力」や「変化に対応するしなやかな力」を盛り込みました。
昨年(2017年)11月11日に行われた大学のグランドデザイン特別公開講演会において、白井先生に“自分らしく、美しく生きる”というタイトルで講演いただきましたが、その方向性にぴったりな内容でした。
聴衆も最後まで熱心に聞いていただき、終了後の学生アンケートにも“前向きに自分の生き方を考えよう”“これからは、こういう風に行動しよう”などのコメントがあり、本当にありがたかったと思っております。

【白井先生】光栄です。ありがとうございます。私も11月の講演会のお話をいただいた際、最初は“うれしい、楽しい、ありがたい”という気持ちだったのですが、だんだんと「美Beautiful」というすごく大きなテーマに悩んでしまいました。なかなか表しにくいし、伝えにくいところなのです。「美Beautiful」というのは、どうしても外見的なところにとらわれがちですが、内面の豊かさとか蓄えの部分だと思うんです。そこで、私らしくそのままの歩みを皆さまにお伝えすることによって何か感じていただければいいのかなと思い至ったんです。先月は、本当にお世話になりました。改めてお礼を申し上げます。助かりました。過去を振り返ってみると当時は、ほんとに必死で思い通りにはなかなかいかず、穴の中に落ちているような毎日を送ったことがあります。楽しいとか面白いとか思えなかったのですが、あのときの経験が私の肥やしになっているし、一番充実していたなと気がつきました。

【北尾学長】そういうご経験の裏打ちが、非常に聞き手に説得力を感じるところがありました。
もう少し掘り下げてお聞きしたいのですが、白井先生も中学・高校と女子の一貫教育の学校で勉学に励まれたと先日の講演会でもお話されていました。学生時代のことで、今でも覚えていらっしゃる出来事はありますか?

【白井先生】私たちの学校の名物は、体育祭でした。女子校にもかかわらず、学年・クラス単位の応援合戦や騎馬戦もあったんです。応援合戦なんて非常に凝っていて、屋上から応援幕を垂らすために、5階建てぐらいの長さの幕をクラスのみんなで作ります。また、先生も一緒にお揃いの仮装をして盛り上げるなどすべて自分たちでやりました。騎馬戦は、結構すさまじいので見学に来る人たちはちょっと驚いていましたね。あまりにすさまじいので、卒業してしばらくしてからなくなったようです(笑)当時はそんな感じですよ。リレーとかもお上品な感じではなく必死、裸足で走るくらいでした(笑)

【北尾学長】そういうところは本学園も似ているような気がします(笑)改めて振り返ってみて、“女子の教育”についてお聞かせください。

【白井先生】私は、中学・高校と6年間女子校、妹も同じ学校だったので、その学校のカラーにどっぷりと染まっていました。その時の友人たちとは今でも付き合いが続いておりますし、お世話になった先生方とも親交があります。様々なものを吸収したり、感じたりする時代に女子校(母校)で育ったということは、自分の人生に大きなインパクトを与えていると感じます。
女子校なので全員が女子というのは当たり前ですが、男女の役割意識みたいなものは一切なく、何でも自分たちでやっていかないといけないということが、チャレンジ精神を持つことにつながり、未知の扉を開く勇気につながったように思います。私の場合、親や周囲から強制されなかったので余計感じたのかもしれません。

【北尾学長】ご家庭の環境もあったんですね。女子校進学はご両親が選ばれたのでしょうか?

【白井先生】主に、母が大阪の女子中・高・短大の一貫教育の中で生活をし、友人を作ったということもあるみたいで、最初から女子校と考えていたようです。私の意志ではなかったのですけど、父は“まあいいじゃないか”という感じだったようです。
また、母校では中学1年生のころから“社会で活躍しなさい”と教えられてきました。印象的なのは、高校の卒業式の学年担任のメッセージでした。 “目立つ人、華やかな人に目がいきがちだけど、地味だけど目立たないところで社会を支えているひとがたくさんいる。そういうひとに目を向けて支える人間になりなさい”という言葉にいたく感動し、そのまま受けとって“社会を支える人にならないといけない”と考えていました。漠然とかもしれませんけど刷り込まれた感じがします(笑)

【北尾学長】様々な立場の、異なるタイプの人たちで社会が成り立っているということを、10代の早い時期から恩師に聞けたということは非常に大切なことだと思います。
これからの社会はどんどん技術革新が進み社会構造も変化し、“将来予測不可能な時代になる”といわれています。だからこそ、男女分けて考えるというより、男女関係なく自分自身でどう立ち向かっていくか、を考えることを通して女子だけの教育環境の良さを感じとっていただきたいですね。
ところで白井先生の場合、高校卒業後大学進学と客室乗務員の道へ進みます。きっかけは何だったのでしょう?大阪外国語大学に進学されたとき、主に学ばれたのは英語でしたか?

【白井先生】いいえ、当時「ベルサイユのばら」が流行っておりましたので『フランス語』でした。
客室乗務員となる時に両親との約束もあり、しばらくは両立していました。今考えると大学に通っておけばよかったと思いますし、大人になった今こそ強く思っています。

【北尾学長】客室乗務員の道のほうは、どのようなきっかけで歩まれたのですか?

【白井先生】学生時代は、まじめだけが取り柄で語学を活かして勉強したらいいかなと思っていました。そんな時に、友人から“全日空の客室乗務員の募集要項が学校に来ており、高校卒業資格での採用が最後らしい”と聞いたんです。幼いころ飛行機に乗ったぐらいで興味もなかったし、客室乗務員になりたいとも思っていなかったのですが、結局、誘われて一緒に受験しました。順当に合格し、5次試験で東京へ面接に行くことになりました。当時、数百人受けて大阪からは22人だけしか通らないという話を聞いて、 “せっかくここまで通ったのにもったいない、これは最終試験まで受けておかないと”と思ったのが記憶に残っています。
意外かもしれませんが、学生時代おとなしくて引っ込み思案で、『自分』を見つけることができずに悩んでいました。
周りから妹と比較されることが多く、どんどん自分の殻に閉じこもっていったんです。
客室乗務員になるということは自分を変えるチャンスじゃないかなと思い合格しましたが、両親の思いもあり大学と全日空の二足のわらじをはくことにしました。会社の休日に大学に行く形で2年間ぐらい続けていたのですが、やはり無理があり客室乗務員の仕事に専念することにしました。

【北尾学長】“倍率が高いからやってみる”というお話は非常に感銘を受けました。本学でも引っ込み思案といいますか、 ちょっとハードルが高かったら“無理だ。この辺でやめておこう”と発想をする学生が多いのですが、白井先生の場合、“倍率高いな。だったら、なかなかないチャンスだから逆に一度挑戦してみよう”と考える、その源はどこにあるのでしょうか?

【白井先生】当時の担任が、就職で悔しい思いをしてきた経験から社会の厳しさを伝えてくれ、“せっかく来たチャンスだからあきらめずにいきなさい、親を説得することを手伝ってあげるから、あなたの悔いのないようにしたほうがいい” と言ってくれたことが大きかったように思います。
また客室乗務員になったころは、せっかく自分を変えるチャンスを逃さないように、なるべく笑顔をモットーに、何か頼まれたり、お声がけがあったときには“わかりました。やらせてください。やります。”というYESのメッセージを自分でも意識して伝えるようにして努力をしていました。

【北尾学長】全てのひとにチャンスは訪れないわけだから、せっかく自分に与えられたチャンスをしっかり活かしていこうという考え方になりますよね。私が最初に白井先生にお会いし、講演・情報交換会でお話させていただいた時に一番覚えているのは、“私はいただいた話は、来るものは拒まずなのよ”という言葉です。
そういった考えは、白井先生の生き方というか、筋が通っているという部分ではないかと思います。相通ずるものがあるなと感じました。

【白井先生】今まで意識していませんでしたが、北尾学長からのお話を聞くと客室乗務員の選択もそうだったと気がつきました。チャンスは平等ではないですけど、違う形でさまざまな人々にありますよね?そのチャンスを気づくかどうかはその人次第、私はあのとき、自分を変えられるチャンスと受け止めました。“一生を暗い鬱々とした人生になりたくない、掴んでおかないと!”と思ったような気がします。

【北尾学長】白井先生の場合は客室乗務員になる時ですが、チャンスは人それぞれで、それに対してどう捉えて進むかで、その後の生き方や人生がまったく変わるような気がします。今回こういうお話を聞くことができてうれしく思います。

【白井先生】思い返して見ますと、私の場合は特に、先生の影響を受けていると思います。
先生が逆境に苦しみ、悔しい思いをしたと伝えてくださったことが響いたのだと思います。

【北尾学長】中学・高校・大学もそうですが、教員の力が大事ですね。何気ない一言が後押しする場合もあれば、逆に人を苦悩させることもありますね。
客室乗務員を辞められた後、端からみると全く違う業界に見えますが、政治の世界、いわゆる市会議員に転身されましたが、きっかけを教えていただけますでしょうか?

【白井先生】平成5年に尼崎で市議会議員が行政視察に行っていないのに、行ったことにしたと市民運動で暴露されました。それが全国ニュースで毎日のように流れていたんです。当時33歳でしたが、有権者として恥ずかしくムカッときて冗談で「私ちょっと出てみようかな」と言ったら母も応援してくれ、当時結婚していたので夫に話すと了承してくれたんです。当時私は、人生を違う形で社会に貢献できないかと考えていました。40歳までいろんなことにチャレンジして、“これだ!”というものが見つかったら20~30年ぐらいその道で頑張ればなんとかなるかもしれないと思っていたところで、もしかしたら私ができることもあるんじゃないかと、まさに選挙投票日の1ヶ月前、そう気づいて立候補することになりました。
のちに、母は「応援するなんて言った覚えがない」と言うんですけどね(笑) 政党政治に対する様々な考え方が生まれたときだったので、政党に全く所属しない候補として当選できたんだと思います。時代背景とか様々な条件とかが合致していたのでしょうね。

【北尾学長】当時の時代背景と白井先生のキャラクターもあいまってのことだと思います。市議会議員としてはどうだったのですか?

【白井先生】当選後の尼崎市議会には女性議員が2割程度いたんですが、ほとんど政党や会派に所属しており、私のような女性は非常に少数派だったんです。政党とか会派に入らなければ発言もできなかったので風穴を開けるのは厳しかったのですが、議会改革があってひとりでも発言、活動ができることになりました。私は8年間市会議員を務めましたが、当時のことが 市長になるときの軸足として考えることができました。

【北尾学長】いよいよ市長に立候補するわけですが、ある組織のトップに立ってみようという、ここでも本当に思い切った選択・判断をされたきっかけはどうだったのでしょうか?

【白井先生】当時の尼崎市はとても財政状況が悪く財政破綻する寸前、もっと市民目線で一般のひとがわかるようなやり方をするほうがいいと思われたようです。
ちょうど私は議員を辞めていて、質素堅実に地域社会で暮らしておりましたが(笑)、議員時代生意気に、意識改革とか組織運営に対する問題提起などたくさんしていたので、さまざまな活動をしている人たちが私を説得に来ました。市民活動とか住民運動のリーダーの皆さん、住民を動かす、自らも汗をかいて努力をしてきた人たちだったので気持ちが傾いてしまってぎりぎりになって決断しました。
市民活動のメンバーに提案されて、公約を作って賛同するひとを募る選挙活動にしましたが、尼崎市長選挙はじまって以来、候補者自身が公約を作成した、と驚いていました。
選挙資金も組織カンパは受けず供託金のみ自分で出す形で、これまで選挙にかかわったことのない人たちが活動した、まったくしがらみのない選挙になりました。
だから私は、誰にこびることなく財政再建、市政運営の改革をすることができたわけです。本当にどういう政治、どういう市政運営をするかは、選挙のあり方に決まると思います。しがらみができたり、恩恵をこうむると遠慮ができ、市政運営が難しくなります。
また市長という形で組織に入ったとき、市会議員時代のことが役に立ちました。マイノリティの経験は多数決の世界において大多数が正しいとは限らない、案外少数派が本質をついてよく勉強している場合もある、“ものの見方は多様であるべき”というのは、そのとき学びました。

【北尾学長】白井先生の場合、市会議員から市長への転機というのは周囲のサポートも重要ですが、しっかり向き合って考え、行動するという一本筋が通っている感じがします。
いろんな転機に対してどう向き合っていいのか、将来的なことで不安になっている学生になにか参考になるアドバイスをいただけますでしょうか?

【白井先生】今の時代、今までのやり方が通用しなくなってきたというのは、私たち女性とってはラッキーかなと思っています。既存の男性中心の社会構造、意識が生み出す閉塞感を取っ払い、少しでも失くしていくことにおいて女性に期待がかかっている時代だと思うんです。
確かに簡単ではないかもしれないですけれども、いよいよ私たち女性に順番がまわってきた、社会チェンジのキーパーソンが女性求められている、女性であれば誰でもいいというわけではないですが、私たちは今こそ自分を信じてチェンジメーカーとして社会を変えていくという自覚を持って、新しい扉を開けていくことが、だれにとっても未来を変えていくことに繋がっていくんだと思います。
日本は今、とても面白い時代がやってきて、その時代に社会を支える立場にいることは幸せなんじゃないかと思います。ちょっと前でも難しかったし、進出しきってしまったあとでも難しい。多くの女性たちが様々な扉を拓いて一歩踏み出すことが、日本の未来を変えることになると思います。

【北尾学長】ピンチはチャンスといいますか、普通に考えたら引き受けると大変なことになるところで飛び込んで変えていかれた経験に裏打ちされた考え方、心もちが大事だと思いますし、若いひとに伝えていただきたいと思います。

【白井先生】振り返ってみれば、『大変』というのはやりがいがあることの裏返しですし、『苦しい』というのはちょっと進めば楽しいということの裏返しなので、自分自身の心のもちようと仲間・組織で活動することは、強く励みとして残っています。



【北尾学長】今回提示したグランドデザイン「美Beautiful」は、内面も含めた総合的な人間力を本学の学生にしっかりと4年間の学びの中で身に付けてもらって、卒業後社会で要として光り輝いてくれるような女性を育成していこうという趣旨なんです。
これから具体的な取り組みを行っていこうと考えているんですけど、白井先生の立場からどういう風にお感じになるのか、最後にちょっとお聞かせください。

【白井先生】「美Beautiful」のメッセージはとても重要だと思います。
外見だけでなく、内面の強さ、清らかさ、エネルギーみたいなものをしっかり持つ女性たちが増えていくということは、これからの社会を大きく変えていくことです。
女性だけができること、心身ともに健康でおなかの中で次の世代をはぐくんで、自分の生き様を子どもに見せていくということ、これはすごく大切なことで次の生をはぐくむことを見据えて、ワークライフバランスをきちんと取りながら悔いのない生き方をしていくことが求められると思います。
今までは60歳ぐらいまで仕事をして、あとは社会の中で人に迷惑をかけないように生きていったらいいと考える時代が長かったですけども、今は100歳まで生きていくことを念頭において、人生設計をしていかないといけない時代になってきています。だからこそ社会にどんな役割を果たしていくのかを踏まえた長い人生設計を考えていくことを、考えさせるきっかけや様々な生き方を提示して自分らしさを見つけていくやり方も重要です。特に女子大では、女性の生き方のモデル、様々なことにチャレンジしてきたストーリーを身近なものとして伝え、生き方を考えていくことができるカリキュラムをしっかりと根付かせてほしいと思います。
単に卒業、就職したら終わりではなく、根を張り、葉を茂らせ、種を育む、蓄えをどうしていくか、この4年間でしっかりと深めて、卒業後も君たちを見守り、一緒に動く、活動していくよというメッセージを大学として出し続けていくことが、大学のひとつのカラーであり魅力にもなるのではないでしょうか。そうして卒業したサポーターたちがたくさんいる中でひとりひとりが後輩のモデルになっていく循環をしていけると社会貢献につながっていくんじゃないかとすごく期待しています。

【北尾学長】美(知性・情操・品性)をしっかりと4年間学びのなかで身に付けてもらう、ここで完成形じゃないですから考えるきっかけでもいい何かを学生の時に感じてもらい、そのうえで社会に貢献する、今回の趣旨にぴったりの話を聞かせていただいて本当に心強く思っております。非常に有意義な時間をありがとうございました。

白井 文 客員教授(就任)Profile

全日空で客室乗務員として11年勤務後、人材育成会社起業

尼崎市議会議員(2期8年)、尼崎市長(2期8年)

現在、一般財団法人大阪府男女共同参画推進財団業務執行理事

ペガサスミシン製造(株)取締役、三洋化成工業(株)取締役、
ブラザー工業(株)取締役、東洋アルミニウム(株)取締役

撮影:大阪樟蔭女子大学にて

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