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樟蔭レポート

閑話休題

 本校に勤める前に体験したことを思いつくまでに記してみたいと思う。

 

出遭い

 地理の授業をしていた時だった。世界は広い。いろいろな国で人が生きている。大きな視野で世界を見たいものですね。そんなことを言っていたようだ。すると「先生はそこへ行ったことがあるのですか。」一人の生徒のこの問いかけがひっかかった。

地下鉄に乗り、なにげなく見たポスターにアフリカの黒い顔をした男の子の写真が目に付いた。それは青年海外協力隊のポスターで、黒い顔にニコッと笑った白い歯の子どもの顔にひかれた。私でもこの子たちのために何かできることがあるんではないかなという思いがずっと心に残った。アフリカに行くことと、日本で仕事をを続けるべきか迷ったが、ある友人は、「君の選択を収支のバランスで例えると、どうみたっては赤字になるさ、外国なんか行けば、事故や病気の危険もあるし帰国してからは就職だって無理かもしれないし、やめとき、・・・。でも人生は一見マイナスにしか見えないことに『かけがえのない宝物』がみつかることもあるけどナ・・・」最後の言葉に背中を押された。教師を続ける自分の糧になるかもしれない。こうして1979年から1983年までの4年間私はアフリカで青年海外協力隊に参加することになったのである。

 

半年間の語学訓練のあとケニアのセコンダリースクール(中学高等学校)に教師として赴任することになった。ここで、その頃に私自身が見聞きした授業や生活の体験を記してみようと思う。

飛行機で日本から約22時間程すると、夜半ナイロビ空港に着いた。アフリカの大地にどしっと足を着けた実感は今も覚えている。ケニアの面積は日本の1,5倍で人口は約4分の1。イギリスが旧宗主国で、スワヒリ語のほか英語を話す。赤道直下だが首都ナイロビは高度2000メートルで年中涼しい風が吹いている。街にはトヨタ、日産の車が走り高層ビルが立ち並ぶ。

しかし都会から離れると、サバンナのブッシュが広がる。人々は教会のシスターから援助で送られたミルクや食糧をもらうために行列している。子どもの手をひき、赤ん坊を抱えている人たちも多い。病院では外で長い列をつくり順番を待っている。学校では、授業料を払えず欠席する者も多い。テキストもなく、実験室もなく教師の数も不足している。生徒達にお土産のサッカーボールと顕微鏡を与えると目を輝かせていた。私の赴任地はインド洋に面したコースト州でそこで住むスワヒリ族とギリヤマ族と生活を共にした。

“Habari ”(こんにちわ)“Jambo ”(ごきげんよう)“Mwarim A nakuja”(先生が来た)“Choo kiko wapi?”(トイレはどこ)など手探りでスワヒリ語をおぼえていった。子どもは明るくて元気だ。そしてよく働く。早朝に起床し、川まで水汲み、ヤギの放牧、朝食の準備を済ませて学校に通い、家に帰ると川で洗濯、畑で野良作業、ヤギと鶏の世話、夕食の準備、そしてランプのもとで学校の宿題をする。結構忙しい。

無題kenya

学校

 当時のケニアの教育制度は、植民地時代からイギリスの制度が行われ、小学校7年、中学校4年、高校は2年間である。大学は中学校卒業から進めるカレッジと高校2年のあと進学できるナイロビ大学などのユニバーシティがある。後者は数は少なく都市に集中している。中学と高校終了時に全国共通試験(K・C・E)が行われ、その成績が進学や就職に大きく作用する。例えば高校卒業時の試験で9科目のうち英、数を含む4科目が8割以上あれば「GRADE2」以上と評点されて、国立のカレッジへ推薦される。そして全科目のうち7科目が4割以下なら「不可」となり、高校卒業の資格も認められない。その生徒たちは家に帰り牛を追う生活となる。成績が優秀であれば、イギリスの大学への留学の道も開かれているが、日本よりエリートへの道は険しい。

 

初めての授業の日。教室に入ると黒い顔が一斉にこちらを向いた。この真剣な顔つきはどうだ。緊迫した空気が流れた。英語を使っての授業に向けて昨日の夜、何時間もかけて予習してきた私のノートはぎっしり準備されていた。ふと見ると教科書は3人に一冊ほどだ。ペンも持ってない子も多い。しかたなく黒板に写して授業を進めた。生徒たちの眼差しにやりがいを感じた。

日本から来た一人の教師は、途上国の人々から見れば「黒帯の柔道家」に似ている。稽古であっても、ひとたび黒帯の先生が投げられたら、人々は彼の実力を疑い、その指導に従わないという。教師として教壇に立つ以上、教科には絶対の自信を持ち、自分の力を信じ、どんな相手に対しても応じられる試合をしなくてはならない。しかし、日本と違い生徒たちは例えば「氷」や「雪」を見たことはない、ナイロビの都市の情景を知らない、など具体的な事象を把握しにくいので教えるのが困難である。そして英語による授業展開は日本人にとってはかなり大変となる。この国では英語は第一公用語とされている。学校では全て英語が使われ、それが教養のレベルのバロメーターとなる。ハイレベルで流暢な英語が喋れない者には先生として尊敬されない。多くの日本人教師は語学によるかなりのフラストレーションがたまるのである。

さらに苦労したのがスワヒリ語である。スワヒリ語はバンツー語系に属し15世紀にアラブ人との貿易で使われた海岸に住む民族から広まった言語でケニア、タンザニア、ウガンダの東アフリカ3カ国におよぶ広範囲で使われる言語である。私の住む村はスワヒリ民族が住み、この言語発祥のルーツであり、スワヒリ語が喋れないと英語よりも日常会話で困ることが多い。私のスワヒリ語の先生は路地で遊ぶ子どもたちであった。いつもポケットに飴玉をいっぱいいれ、それを「授業料」にして教えてもらったものだ。子ども達はよくおしゃべりする。私との会話にも根気よく付き合ってくれる。苦心の末、日常生活に必要な言葉が使えるようになった頃には、日々の生活がとても楽しく、豊かなものに変わったようだ。学校では英語、家に帰るとスワヒリ語、手紙は日本語という生活が続いた。言葉のほかにも現地の生活に慣れるまで様々な試練があった。熱帯病、マラリヤ蚊、毒蛇に蠍、毒蜘蛛、住血吸虫、宗教の違い、気候への順応、食事の違い、孤独・・・。しかしそこで人々は生活している。教えられ、学び、助けられて生きていく。人間は一人では生きていけないことを痛感する。1年ぐらい過ぎた頃だったろうか私はジロジロ「見られる」側から「見る」側に変わっている自分を感じた。モスレムではないけどモスク(寺院)にもお参りに行きラマダン(断食)には参加する。夕涼みをしながら、近所の人達と同じものを左手を使って食べ、スワヒリ語で、学校のことや、出来事を話す。そのころは自分の肌の色が白いことを忘れていた。

 

貧しさ

 ケニアに来て貧しいという現実を知った。今も私の心にかかる思い出がある。ある日老人が訪ねて来た。よく見ると彼は盲目であり首から次のような書き物をぶら下げていた。「私は目が不自由です。家族7人を養わなくてはならず、どうかめぐんでほしい。」同情した私は手元にあった20シル(500円ほど)を手に握らせて帰らせた。しばらくすると再びやって来た。さっきのお礼に来たのかと思っていたら、

「日本人は金持ちだからもっとくれると思っていた。20シルなら生活できない。」

と何やら早口で言っている。驚いた、と同時に腹を立てた。その20シルをつかみ、部屋にもどり戸を閉めた。そのあと「神は自ら助けるものを助ける。」と叫んで戸を開けなかった。その後老人とは会ってない。援助を受けることに慣れ、それに甘んじる人達にカチンときたのだ。若気の至り、その時は正しいことをしていると思っていた。

貧しいとは単にお金がないことではなく非識字率、栄養失調による乳児死亡、病院と医師の不足、干ばつなど自然条件に影響されるモノカルチャー、不安定な政治、紛争・・・そんな環境すべてを貧困というのである事に気付いたのはずっと後のことだった。彼に憤ってもどうしようもないことだったのだ。騙されてもいい。困っている人にどうして50でも100シルでも手渡してやれなかったのか。せめて話を聞いてあげたらよかった。上から目線で見ている、視野の狭いちっぽけな自分がそこにいただけだ。その人たちのために・・・私はこの国へ来たのではなかったのか。

あの老人はどうしているだろうか、という悔恨の気持ちが今も残っている。

 

スワヒリ語に次のようなことわざがある。

“Kupotea njia ndiko kujua njia”(道に迷うことこそが、道を知ること)

 

人と人との出会いによって人間は成長するんだろう。

 kenyanmtoto

かけがえのない時間

 「○○さん今忙しいかしら?」日本なら夜電話するにも相手のことを気遣い遠慮するだろう。テレビやラジオのないところでは、夕方仕事を終えた人々は、夕涼みに家の前にたたずみいろいろと話をする。前を通る人々は何気なく手を振り挨拶をする。「ハバリ」「ジャンボ」(やあ、こんにちは)。家を訪ねれば家族みんなで出迎えてくれ、貧しくてもちょっとした手作りのケーキとチャイでもてなしてくれる。慣れない頃はランプの灯りが暗く、夜が長く感じたものだ。そんな時、誰かがドアをノックする。「ホーディ」「カリブー」(いますか? どうぞお入り)戸を開けると近所の青年が立っていた。来客である。日本のグリーンティでもてなす。ランプの明かりを囲んで隣の誰だれは子どもが生まれたとか、家族の誰それは結婚が近いとか、と言う話に花が咲く。しばらくすると帰っていく。「カリブー」「ララ サラーマ」(またどうぞ、おやすみ)明日はまた隣人が訪ねてくることだろう。

モスクへ歩いて行った。住民のほとんどは敬虔なモスレムなので人々の朝は5時から始まりここで一日に5回の祈りの時を持つ。月の光のもとで生徒の顔ものぞいている。近くに住む小さな子どもが私を見つけ手をつないできた。はじめてここへ赴任した頃、誰一人知り合いもなくこんなところでやっていけるのかと不安だった自分を思い出す。住んでいる村は少しも変わっていないけれど私のこの国に対する考え方は大きく変わったようだ。5年、10年後再びこの地を訪れてもおそらくこの村は同じではないかなという思いがした。ゆったりと時が流れ、4年の歳月が過ぎた。

そのあいだに数え切れない多くの人々や出来事に出遭った。帰国後、縁あって樟蔭に奉職した。歴史と伝統のある女子学園である。私にはある意味でケニアより未知の世界だった。

ケニアのことわざには次のような言葉がある。

 

“Milima haiktani, lakini binadamu hukutana”(山と山は出会えないが人とひとは出会う)

新しい出会いをつねに大切にしたい、その気持ちは今も同じである。

 

三藤 亮介