校名・校章・校歌について
校名・校章について
「樟蔭」という校名は、「樟(くす)の余芳の蔭(あやかるの意)」、つまり、「楠木正成夫人のいつまでも残る遺徳(余芳)にあやかる。」という意味から付けられ、本学園が、創立の地を楠木正成(くすのきまさしげ)ゆかりの河内に定めたことに由来しています。楠木正成は、巧みな兵法と知略により、後醍醐天皇の篤い信任を受け、建武の新政権成立後は河内・和泉国の守護となり、後世の人々から「大楠(だいなん)公(こう)」として慕われた南北朝時代の文武に長けた武将でした。大正時代の子どもたちも、楠木正成の武勇伝や楠公夫人・お久の方の賢婦人ぶりを伝記などで見聞きして育ったのです。現在とは異なる当時の世相の中では、楠木氏一族は映画に登場するヒーロー的な存在だったのでしょう。夫、正成の死後も、長男正行(まさつら)を始めとする6人の子どもを立派に育て上げたお久の方を偲び、「樟の余芳にあやかって」名付けられた「樟蔭」という校名には、前途有為な若者への創立者の深い愛情と、成長への願いが込められています。「樟蔭」と名付けられたことは、当時の時代背景と深く関わっています。
「菊と水」をかたどった校章も、楠公の旗印に由来しています。菊は朝廷を、水の流れは農民にとって最も大切な「水分(みくまり)の神」をシンボリックに表したものといわれています。
樟蔭校歌
樟蔭校歌の発祥
樟蔭の校歌は、樟蔭高等女学校の初代校長である伊賀駒吉郎による作詞、日本を代表する作曲家であった信時潔の作曲により、樟蔭高等女学校創立10周年にあたる1927(昭和2)年に作成された。
作曲者 信時 潔(のぶとき きよし)について
大阪府出身。1887(明治20)年に牧師の子として生まれ、幼少より賛美歌に親しんだ。大阪の市岡中学を経て、東京音楽学校器楽部および研究科器楽部でチェロを学び、その後、同科作曲部に移り、助教授、教授を勤めた。
主な作品には、交声曲『海道東征』、歌曲集『沙羅』、戦時歌謡(国民唱歌)『海ゆかば』(大日本帝国海軍の将官礼式用儀制曲『海ゆかば』とは同名異曲)、ピアノ組曲『木の葉集』、合唱曲『紀の国の歌』、『鎮魂頌』などがある。芸術音楽のみならず文部省唱歌『電車ごっこ』等を作曲。戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂、監修にも力を注いだ。
また、慶應義塾塾歌、学習院院歌、開成学園校歌、帝京中学校・高等学校校歌など数多くの校歌や社歌を手がけ、生涯でおよそ1000曲に上る曲を作曲。
1963年に文化功労者として顕彰され、1964年に勲三等旭日中綬章を叙勲された。1965年没。