創立者と初代校長
森 平蔵(創立者 1875 - 1960)
樟蔭学園の礎を築いた森平蔵は、明治8年9月、兵庫県神東郡(現・神崎郡市川町)に生れ、明治24年頃、大阪市浪速区幸町の木材商朝田商店へ見習い奉公に入り、明治34年、大阪市西区北境川において独立開業、以後、木材販売及び植林業を営むようになりました。
爾来、木材を運搬する船舶に着目し、木材流通の効率化を図ったことから莫大な利益を上げました。大正4年には、みずから森平汽船株式会社を創立して取締役社長に就任、折からの海運ブームにより巨万の富を築きました。
大正初期には商家を中心に、自らの子女に中等教育を受けさせたいとの機運の盛り上がりがありましたが、大阪市内における女学校の定員は、志望者の数に比して絶対数が不足しておりました。
森平蔵は、このような教育界の現状を憂い、私財を投じて私立の高等女学校を設立することを決意し、この熱意を、当時の関西教育界の第一人者であった伊賀駒吉郎先生に打ち明け、この地(現在の小阪キャンパス所在地、東大阪市菱屋西)に学校を建設する決断を致しました。
こうして、4年制高等女学校及び2年制専攻科からなる「樟蔭高等女学校」は、大正6年12月、文部大臣より設置認可を受け、翌大正7年4月に開校しました。この時、森平蔵42歳、16歳の見習い修行から始めて26年、独立開業からは僅かに16年目での大事業でした。
森平蔵氏年譜
年号 | 年齢 | |
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明治8年 9月 | 0歳 | 兵庫県神東郡(現神崎郡市川町)に生まれる。 |
明治24年 | 16歳 | 木材商の朝田荷蔵商店(大阪市浪速区)へ見習い奉公に入る。 |
明治34年 | 26歳 | 大阪市西区北境川において独立開業し、木材販売及び植林業を営む。 |
明治35年 | 27歳 | 朝田荷蔵氏の四女タマと結婚。 |
大正 4年 | 40歳 | 森平汽船株式会社を創立し、取締役社長就任。日本赤十字社より有功賞を受ける。 |
大正 6年 | 42歳 | 多額の私財を投じ、樟蔭高等女学校を開設。(設置認可を受ける) |
大正 7年 | 43歳 | 米価高騰の際、救済のため金一万円を寄贈し、大阪府知事より感謝状を受ける。 |
大正 8年 | 44歳 | 樟蔭高等女学校を財団法人とし、理事長に就任。 |
大阪電気軌道株式会社(現・近畿日本鉄道株式会社)取締役就任。(昭和19年3月まで) | ||
大正10年 | 46歳 | 久邇宮殿下より紋章入り銀杯一組を授かる。 |
大正11年 | 47歳 | 教育事業に貢献した故をもって勳三等瑞宝章受章。 |
大正14年 | 50歳 | 樟蔭女子専門学校の設置認可を受ける。 |
昭和 2年 | 52歳 | フランス大統領より、国交功労者としてシュバリエ・ドラゴン・ド・ランナン勲章受章。 |
昭和 3年 | 53歳 | 紺綬褒章受章(関東大震災の際に金一万円寄贈したことにより)。 |
昭和 5年 | 55歳 | 大阪鉄道株式会社(現・近畿日本鉄道株式会社)第2代社長に就任。(昭和7年9月まで) |
昭和 6年 | 56歳 | 大阪木材同業組合組合長就任。(昭和8年4月まで) |
昭和11年 | 61歳 | 菱屋西の住まい(現・樟徳館)に移る。 |
昭和19年 |
69歳 | 大阪地方木材株式会社社長就任。(戦時木材統制会社・昭和21年11月まで) |
近畿日本鉄道株式会社相談役就任。 | ||
昭和24年 | 74歳 | 財団法人樟蔭高等女学校を財団法人樟蔭学園に名称変更し、理事長に就任。 |
昭和26年 | 76歳 | 財団法人樟蔭学園を学校法人樟蔭学園に組織変更し、理事長に就任。 |
昭和27年 | 77歳 | 株式会社都ホテル取締役に就任。 |
昭和32年 | 82歳 | 多年教育事業に寄与した功績により、布施市より有功章受賞。 |
昭和33年 | 83歳 | 多年教育事業に貢献した功績により、藍綬褒章受章。 |
昭和35年 6月 | 85歳 | 永眠。享年85歳。正六位勳三等旭日中綬章追贈される。 |
故人の遺志により、森平蔵氏の邸宅が「樟徳館」として学園へ寄贈される。 |
伊賀駒吉郎(初代校長 1869 - 1946)
初代校長・伊賀駒吉郎は、明治2年10月、現在の香川県高松市松島町に生れ、20歳で結婚後、直ちに上京して東京私立哲学館(現・東洋大学)を卒業、高松に帰郷して教員検定に合格します。高知師範学校で教員のスタートを切り、その後、大阪府立第6中学校(現・岸和田高校)教諭(明治30年)、香川師範学校教諭(明治31年)、兵庫県御影師範学校教諭(明治32年)、明石女子師範学校教頭(明治36年)などを歴任し、当時、関西教育界の第一人者でした。その後、明治39年には、大阪府立島之内高等女学校(後の府立夕陽丘高等女学校)校長に就任していますが、樟蔭高等女学校設立の前年、大正5年には校長を辞して私立甲陽中学校設立に参画して初代校長に就任する等、輝かしい経歴の持ち主でした。また、「女性大観」など多数の著作によって、教育界において、殊に女子教育に関して、全国的に知られる存在となっていました。
大正6年には、創立者森平蔵に請われ、樟蔭高等女学校の設立に参画して顧問に就任しました。大正7年10月には樟蔭高等女学校の校長に就任、その後大正14年に設置された樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学の前身)の校長に就任しています。その後、樟蔭女子専門学校・樟蔭高等女学校・甲陽高等商業学校の校長や、甲陽中学校名誉校長など、あるいはその後設立された樟蔭東高等女学校校長などの要職を兼務した時期もあり、教育界に捧げた一生でした。
昭和21年3月3日永眠。享年77歳