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樟蔭BLOG

ブログ

2024.03.06

学校の勉強は果たして無駄か?

樟蔭レポート

教師をやっていると、「数学なんか足し算と引き算さえ出来たらそれでいい」「学校の勉強って必要?」という感じのことを聞かれることがよくあります(私自身はこう聞かれた時には”ちょっとリッチな生活を送るため”と答えています)。

ネットで落語家の立川志らくさん(最近までM-1の審査委員をされていた方です)が “古文は必要か否か” 論争について、自身の見解をつづっている記事を見つけたので紹介します。あなたはどう感じましたか?(谷口 宏)

 

「古文は果たして無駄か?」 エッセイです。

古文教育は無駄か否かというのが話題になっている。普通に暮らしている場合、古文の知識は確かにいらない。でもそれを言ったら数学だって足し算引き算掛け算割り算を知っていればいい。サイン・コサイン・タンジェントとかも無駄になってしまう。国語にしたって読み書きが出来ればいい。授業で太宰治の「走れメロス」とか梶井基次郎の「檸檬」なんて習う必要はないってことに。学校の授業ってどの分野に興味を持つか探る機会だし、脳に色々な刺激、訓練を受けさせる為に必要なのでは。古文に興味を持ったらその道に進めばいいだけ。それを社会生活に必要ないからと排除してしまったら誰も古文を研究する人がいなくなっちゃうよ。

それに無駄と言えばたいていのものは無駄。「人生とは最大の暇つぶし」という言葉があるが、音楽や美術だって必要じゃない人からすれば無駄だし。人に聴かせる機会がなくても夢中になってピアノの練習をしている人とか、無駄と言えば無駄だが、その人にとってこんな有益な時間はない。

授業は限られた時間内にやるものだから有益なものを優先すべきだという考えもある。国際社会だから古文をやる時間を英語に費やすべきだとか。でもね、無駄とか有益だとかでしか考えられない人生ってつまらない。無駄なものに夢中になるとか、修業もそうだが無駄を重ねることによりそれがやがて熟成されて人間力、つまりは温かい心を持てる人間に成長出来る(精神科医の名越康文氏の言葉)。

古文もそうだし、古典落語を知っていると人生楽しいよ。まあ、下手な落語に出会うと、時間を返せ!という気持ちになり、その無駄は熟成しません、でも忍耐力はつきます。

2/29 立川志らくのX(旧Twitter)から引用