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思いを書き自分を知る~田辺聖子先生の日記より~

2021年11月1日

学長  北尾 悟

 一気に秋となりました。朝晩冷え込み直ぐにでも冬が来るのでは、と思う今日この頃です。コロナウイルス新規感染者数は減少しましたが、行動緩和に伴いまた再拡大しないか、そして、昨年流行しなかったインフルエンザの動向も気になります。

 さて、今年6月の文藝春秋に田辺聖子先生の「十八歳の日の記録」が掲載されました。没後2年経った時期に田辺先生の親族のお二人が部屋の片づけをしていた際、押し入れから一冊のノートが見つかり、そこには昭和20年4月~22年3月までの記録が綴られていました。ちょうど太平洋戦争末期からの時期で、空襲、自宅の焼失、敗戦、父の死と、心身ともに大変なことが起き、絶望感に苛まれることも度重なったことでしょう。しかしながらこのような状況下においても、文学創作に没頭したいという田辺先生の欲望を明確に読み取ることができ、その後の作家活動の礎を垣間見ることができます。

 当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)の国文科の学生であった田辺先生は、向学心に燃えて入学しました。ところが戦況が悪化し、軍需工場に動員され勤労学徒として工場の寮に住み込むこともあり、国文学の勉強もままならぬ状況でした。そんな中でも小説家を夢見て、そして夢見るだけではなく現実的に出来ることから努力を惜しまない姿勢が感じられるとともに、周りの人たちをよく観察し、級友、学校の先生などをモチーフにクッスっと笑わせるエスプリを利かした文体から、その後の作品へ繋がることを窺わせてくれています。

 「伯母は『絶えず書く人だった』と思う」と、姪っ子の田辺美奈さんは同じ文藝春秋に記しています。『書く』ことに関しては、この「学長だより」で2回ほど『書き』ましたが、田辺聖子先生の日記を読み、改めて『書く』ことについて記したいと思います。

 自分の考えや意見をまとめるには、頭の中で考えることは当然のこととして、それ以上に自分の手指を動かして「書く」ことが大事だと述べてきました。他人に見せるものではないので、稚拙な文章であっても構いません。また文章に表さなくても、単語やキーワードを記すだけでも良いと思います。また自分だけ理解できれば良いので、絵や図表を描いてみるだけでも十分です。要は何かしら表現することです。自分の頭の中で感じたことを体の外に吐き出す作業をすることです。この作業を通して、自分の考えや意見が少しずつ形になっていくでしょう。

 そうはいっても中々書くことが難しい、あるいは実際に書くことができない人はどうすれば良いのでしょうか?その場合は、人の文章を「模写」することをお勧めしたいと思います。以前、天声人語の模写のことを記しましたが、どんな文章でも構いません、とにかく書いてみることです。書いているうちに自然と書くことに抵抗がなくなってきます。そしていつの間にか、自分で文章を書いてみようという気持ちが湧いてくるはずです。だまされたと思って始めてみませんか?

 「書く」作業を進めていくうちに、社会、世の中を見る自分の気持ちも変化していきます。日常生活においても、毎日の何気ない光景にさえ不思議と何かしら感じるものが生まれてきます。文章を書いているうちに、いろいろなことを感じたり思ったりしてくるはずです。そのような心境になると、周りの何気ない光景・風景から、そこに存在する「自分」のことを思うようになります。「自分」に対して思いを馳せることは、つまり「自分の気持ちを感じ、探り、知る」ことにつながるのではないでしょうか?このことが「表現の本質」であると考えます。田辺聖子先生は、小さい頃から「書く」ことにより、この「自分を知る力」が養われ、好奇心旺盛に人生を歩まれたのだと思います。

 これからの世の中、予測が難しいと言われています。また現況のコロナ禍もそれに拍車をかけています。こういう状況だからこそ「自分を知り、自分軸をつくる」ことで、困難を乗り越えていけるはずです。軸になるのは「自分」です。言うなれば、「自分の気持ちや思いを書く」ことで、心を強く保つことができ、人生を謳歌できると思います。

 いろいろなことを感じ、そこから自分を知り、軸をつくり歩んでいくことができれば、素晴らしい人生になるはずです。自分のことですから他人にどう思われようと関係ありません。

 我が家の柴犬は、散歩中、時々、空を見上げ風を感じています。彼も「自分軸」をもって犬生を歩んでいるようです。

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